私は松江での3年余りの任期を終え、9月からは師匠がいる三鷹の北京堂を引き継ぐため、東京へ戻ることになっていた。
私が島根を離れることを知った師匠のお父さんは、「8月28日に東出雲の祭りがありますが、ウチで一緒に夕飯を食べませんか?」と言った。実は、それ以前にも、武内神社の夜通しの祭りを見に来ないかと何度か誘われていた。しかし、鍼灸院の都合で止むを得ず断っていた。
何故か、今回は最期の機会になるかもしれないな、という思いが脳裏をよぎった。それゆえ、断らないことにした。独りで行くのも何だか侘(わび)しい気がしたので、「こびとを連れて行っても良いですか?」と聞くと、お父さんは「どうぞ、どうぞ」と言った。東出雲の祭りは穂掛祭と言い、毎年行われる、揖夜神社の神事らしかった。
この日は水曜日で、仕事を終えてからバイクで東出雲へ向かった。松江の学園通りから東出雲までは、バイクで10分くらいだ。すでに日が暮れかけ、周囲は薄暗くなっていた。
師匠の実家は9号線沿いにある。9号線は出雲から松江、米子をつなぐ山陰の大動脈だから、比較的車の往来が激しい。それゆえ、車で行くと駐車場の出入りが難儀なので、バイクで行くことにしたのだった。何とか、19時前に到着した。
とりあえず、島根を離れる前に、記念として北京堂発祥ハウスの外観を撮っておくことにした。
ボタンだけのインターホンを押し、見慣れた引き戸を開けると、待ってましたとばかりに、お母さんが出迎えてくれた。
股関節をかばうように、肩を左右に大きく揺らして歩くお母さんについてゆくと、8畳の和室に通された。部屋の真ん中には、こげ茶色の四角い座卓があり、左右に座布団が2つずつ敷いてあった。
こびととお母さんは初対面だった。私がお母さんにこびとを紹介すると、お母さんは何の脈絡も無く、「あら!あなたバレーボールやってるの!」と叫んだ。こびととバレーボールを結びつけるような情報は一切見当たらなかったが、どうやらお母さんは、こびとがバレーボールの選手か何かであると思い込んだ様子だった。お母さんはビールが好きで毎日飲んでいるとのことだったから、アルコールによって側頭葉が委縮し幻覚が見えているのではなかろうか、と想像した。
我々が返答に困っていると、お母さんはおもむろに窓を開け、庭の植木に水をやり始めた。もはや、こびとがバレーボールをやっているか否かはどうでも良い様子であった。
お母さんが水やりをしている間、かつて、師匠が治療部屋に使っていた部屋を覗いてみることにした。お父さんは私を信用していたから、普段から、治療部屋は自由に見て良いと言ってくれていた。そういえば、東京にいた師匠から、「〇〇の本を探して送って」と頼まれたことがあったが、本が多すぎて探すのが大変だった。
北京堂が松江の学園通りに移って以来、ここは徐々に物置部屋に変わっていったようだった。本棚には、師匠が中国でコツコツと買い集めた、中医関係の本がギッシリと並べられていた。どれも、今では絶版になった貴重なモノばかりだった。鴨居の上には、青い箱に入った、特注の4寸鍼が無造作に並べられていた。
私が弟子入りして間もない頃、師匠は「実家には鍼灸湯液の本が1000冊以上あるだろうなぁ」と呟いていたことがあったが、確かにそれくらいはありそうだった。30年前の中医書は紙質が悪く、古いペーパーバックのようで、貧しかった中国を垣間見た気がした。
しばらく本棚を眺めたあと、客間へ戻ることにした。座布団に座り、窓越しにお母さんを眺めていると、お父さんが急須と湯呑をお盆に載せて、客間に入ってきた。湯呑に注がれたお茶をすするや否や、お父さんが、「風呂を沸かしてありますから、先にお風呂に入ってください」と言った。今の東京では考えられないことだが、これが田舎における、客人のもてなし方なのであろうな、と想像した。
風呂場は昭和を感じさせる作りで、正方形の水色の風呂釜の横に、小さなスノコが置いてあるだけだった。シャンプーやリンス、コンディショナーなどは無く、固形石鹸が1つ置いてあるだけだった。とりあえず、シャワーで体を流し、湯船に浸かった。
風呂の北側には小さな窓が付いていて、窓の外には青々と密生した稲穂が、その向こう側には山陰本線の線路が見えた。湯船に浸かってしばらくすると、ガタンゴトンと、電車が通り過ぎる音が聞こえた。平和なひと時だった。そういえば、お父さんとお母さんは、山陰本線のことを電車とは言わず、汽車と言っていたな、と思い出した。
風呂から上がり、脱衣所に用意してあったタオルで体を拭いた。風呂に入る前に、予めドライヤーが無いことを確認していたから、頭は洗わなかった。以前、僻地にある温泉へ行ったとき、脱衣所にあると思い込んでいたドライヤーが無くて、後悔したことがあった。それ以来、自宅以外で風呂に入るときは、必ずドライヤーの有無を確認してから、頭を洗うかどうかを決めることにしていた。
少しスッキリした気分で客間へ戻ると、座卓には料理が並べられていた。お母さんは私を見て、「今、お父さんが魚を焼いていますから、座っていて下さい」と言った。
お母さんとこびとと与太話をしながら10分ほど待っていると、お父さんがニコニコしながら、焼いたばかりの魚を運んできた。お母さんは、「お父さんは魚を焼くのが上手なのよ」と言った。
私が、「鯛と鮎なんて、東京じゃ滅多に食べられませんよ」と言うと、お母さんは、「あら、そうなの」と笑みを浮かべながら興味深そうに言った。
島根にいた頃は境港が近いせいもあり、美味い寿司は散々食べた。しかし、お父さんが買ってきてくれた五右衛門鮓の鯖寿司は、一度も食べたことがなかった。お父さんは、「米子に本店があってね。中々美味しい寿司ですよ」と言った。お父さんは、さりげなく、五右衛門鮓の小冊子を置いてくれていた。確かに、これは美味かった。
一方、お父さんが焼いた鯛と鮎は焼くのが上手と言うわりに、少し生焼けのような気がした。しかし、心優しい私は、「美味しいですね」と連呼しながら食べた。
島根に来て間もない頃、そもそも師匠が何故に鍼灸の道を選んだのかを、お母さんに問うたことがあった。当時、師匠は東京の大学に進学し、桜上水に住んでいた。しかし、甲州街道近辺を漂う排気ガスの影響か、呼吸器を悪くし、一時的に島根に戻ることになった。ある日、家族でテレビを見ていた時、ドキュメンタリー番組か何かで、中医が西医に見放された患者を針灸で治す、というシーンが放映された。
で、これを見ていた師匠は「おかあちゃん!これからは針灸の時代だよ!僕は針灸学校に行く!」と言ったそうだ。要するに、お母さん曰く、師匠が鍼灸の道に入ったきっかけは、テレビ番組だった。どこまでが本当の話なのかはわからなかったけれど、師匠の昔話となると、お母さんは大そう嬉しそうに語ったものだった。この日もお母さんは、何度も聞いたことがある師匠の昔話を、延々と語り続けた。
食事が終わり、デザートにブドウが出てきたが、さすがに食べきれなかった。すでに、20時30分を過ぎ、外は真っ暗だった。私が何気なく時計を見やると、お母さんが、「あなた達、せっかくだからお祭りに行って来たら。東京の人は田舎のお祭りを見たことが無いでしょう」と言った。
すると、お父さんが間、髪を入れず、「私が案内しましょう」と言った。お母さんは股関節が悪いせいか、室内を歩くのもしんどい様子で、「私は家にいますから」と言った。結局、これが、お母さんとの最期の会話になった。
北京堂発祥ハウスから揖夜神社までは、揖屋駅の上にかかる歩道橋を渡り、そこからさらに10分ほど歩かねばならなかった。お父さんは80歳を超えているにも関わらず、毎日しんぶん赤旗をせっせと配っていたゆえか健脚で、ついていくのが大変だった。
歩道橋を渡って少し歩くと、中海から商店街に舟が戻ってきているのが見えた。船の底には車輪が付いていて、それを山車のように数人のオッサンが曳(ひ)いていた。舟は数種あり、子供が乗り、お囃子(はやし)をしている船もあった。
荷台に、ねぶた祭で使うような灯籠や提灯を載せて、のんびり走っている軽トラもあった。
松江市にはこんなに人がおったんか、というくらいの人出で、立ち止まって写真を撮るのに一苦労だった。私が「出店(でみせ)が沢山並んでますね」と言うと、お父さんは、「昔は出店がもっと沢山ありました。〇〇から来ているテキヤも多く、〇〇もありました」と、地元民しか知らないような衝撃的なネタをサラリと語った。都会に比べて娯楽の少ない地域であるから、地元民にとっては今も重要なイベントの1つになっているのであろうな、と想像した。
結局、揖夜神社に来てみたものの、すでに神楽や安来節などの演目は終わっていたようだった。とりあえず、揖夜神社の由来が書かれた看板を眺めることにした。どうやら、揖夜神社は揖屋ではなく揖夜と書くらしい、ということをここで知った。出雲大社と同様、大社造のようだった。
揖夜神社の創建については不明だが、日本書紀や出雲国風土記、延喜式神明帳などに、揖夜神社と思しき記載があり、平安期より前には存在していたらしい。また、三代實録には、清和天皇の貞観十三年に、正五位下の御神階を賜ったとの記載があるそうだ。
特に神社で見るべきものがなかったので、北京堂発祥ハウスへ戻ることにした。実際には「戻ることにした」というより、我々はお父さんの後ろを、お父さんの意思に従って、お父さんの行きたい方向に歩いていただけだった。祭りのメイン通りから離れると人がまばらで、まさに田舎の商店街、という雰囲気が露骨に感じられた。
お父さんは往路よりもゆったりと歩きながら、時々立ち止まっては、観光ガイドのように建物の歴史などを語った。くみたけ百貨店は親戚が経営しているそうだ。現在は、近くにコンビニやイオンが進出したためか、大そう哀愁漂う感じだったけれど、半世紀くらい前は、本当に百貨店のような存在だったのかもしれない。
しかし、組嶽とは珍しい苗字だ。店頭には祭りを眺めるためと思しき椅子が、2つ置かれていた。そういえば以前、お母さんが、「周はこの時期になると必ずこっちへ帰ってきて、友達とお酒を飲みながらお祭りを眺めるのが好きなのよ」と、言っていたことがあった。きっと師匠は、くみたけ百貨店の前の椅子に座っていたのかもしれないな、と想像した。
くみたけ百貨店のすぐ近くには、越野とうふ店があった。お母さんはここの天ぷらが大好きだった。私が松江の北京堂にいた頃は、お母さんは出来立ての越野の天ぷらを買い、定期的に持って来てくれた。ちなみに、アルコールで脳が委縮していたためかどうかは今となってはわからないが、お母さんは毎回、「東京の人はこういうものを食べたことがないでしょう」と言っていた。慈悲深い私はその都度、「はい、食べたことがありません」と答え、天ぷらを受け取らねばならなかった。
松江には他のメーカーの天ぷらもあったけれど、やはり越野のモノが一番美味かった。松江では、天ぷらよりもあごの野焼きが有名だけれど、私は越野の天ぷらの方が好きだった。ちなみに、松江で言う天ぷらとは、魚のすり身を挙げた薩摩揚げみたいなモノのことだ。
しばらく歩くと、揖屋駅を示す看板の手前に、「いやタクシー」と書かれた看板が見えた。「揖屋タクシー」と書くと読めない人が多いから、あえて平仮名の屋号にしたのであろうが、どうもタクシーを毛嫌いしている個人が掲げている看板のようにしか見えなかった。かつて、B級雑誌として一世を風靡したGON!が生き残っていたら、微妙な看板として、雑誌に掲載されていたかもしれない。
商店街を抜けると、右手にローソンが見えた。まだ開店して間もない雰囲気で、物珍しそうに中を伺う地元民で賑わっていた。
さらに先へ行くと、「三菱農機」と記された看板が見えた。ここから先は三菱農機の工場地帯らしかった。東出雲と言えば、農業機械のパイオニアとされる三菱農機が最も有名かもしれない。三菱農機の全盛期は、町内にはもっと活気があったらしい。
お父さんは我々の前を歩きながら、「東出雲町が松江市との合併を頑(かたく)なに拒んでいたのは、三菱農機に勢いがあったからです」と、出雲訛りの標準語で言った。
私とこびとは、東出雲にこんな大きな工場があったんか、と驚きつつ、お父さんと最初で最後の夜のお散歩を終えることにした。別れ際、お父さんが、「明日、一緒に黄泉比良坂(よもつひらさか)へ行きませんか」と言った。私は、黄泉への入口とされる黄泉比良坂には以前から行ってみたいと思っていたため、快諾した。
2008年頃には短期間であったが、松江の菅田町あたりで師匠が営業していたらしい。学園通りの北京堂は2009年から営業している。最初は師匠の中国時代の旧友であった鍼灸師のTさんが経営していたのだが、イロイロと諸事情があり、2010年から私が一時的に北京堂を引き継いでいた。現在は師匠の弟子の研修所というか、訓練施設のような感じで、新しい弟子が数年ごとに引き継ぐようなスタイルになっている。
2010年も学園通りの北京堂は松江駅から徒歩10分くらいの場所にある、茶色い外壁のビルの6階で営業していた。このビルは7階建てで築30年ほどになるが、完成当初は松江で最も高いビルとして、市内でもひと際目立つ存在だったらしい。今は1階におしゃれなカフェが入っているそうだ。
基本的に鍼灸院の立地は、可能な限りバリアフリーである方が良いため、師匠は6階に鍼灸院を構えることに反対していた。しかし、友人であったTさんが「眺めが良い方が良いでしょ」と主張したため、断ることが不得手な師匠はTさんに言われるがまま、606号室の賃貸契約書にペタンと判子を押してしまった。師匠はあとになってから、「馬鹿と煙はなんとやら、だからなぁ」と言い訳がましくTさんの陰口を叩いていた。
鍼灸院には様々な患者が訪れる。特に強度のぎっくり腰や捻挫、肉離れ、脳血管障害後遺症などの患者は歩行困難であることが多いから、上階まで上がるのには多大な労力を費やさねばならぬ可能性がある。さらに、北京堂のような響きの強い針灸治療は施術後のダメージが大きいため、数段の階段さえ降りることが困難になるケースが珍しくない。
ゆえに北京堂のような鍼灸院の立地は1階かつ、入口付近に段差がないのが理想だ。エレベーターがついていれば問題なかろうと思う人もいるかもしれないが、マトモなビルであればエレベーターの定期点検が必ずあるから、ビルによっては1ヶ月に数回エレベーターが使えなくなることもある。
実際に北京堂が入っていたビルでも、定期的かつ予告なしにエレベーターが止まるもんだから、運悪くその時間に予約を入れていた患者は、ヒイヒイ言いながら6階までの階段を上らねばならなかった。島根人は普段は車の移動が主であって、東京人のように歩く習慣が少ないから、たかだか6階までの移動であっても相当な負担を強いられるらしかった。また、島根の北京堂は東京と違って高齢者も多く来院していたから、90歳前後の老人が息を切らせながら階段を使う時は、昇降途中で逝ってしまって焼香が必要になるのではないかとヒヤヒヤした。
そういえば、オスマン・サンコン氏は日本で初めて通夜に参列した時、焼香のやり方がわからなかったらしい。それで前に並んでいた人の作法を真似ようと思ったそうだが、「ご愁傷様です」と言う日本語が「ご馳走様です」と聞こえ、香木を額に近づける仕草を後ろから見た時、香木を食べているように見えたため、香炉へ落とすはずの香木を口の中へ入れて食べてしまったそうだ。
松江の北京堂を引き継いで数か月ほど経つと、日中ずっと日が当たらない玄関横の部屋で、カビと結露が大発生していることに気が付いた。和室だったが、畳が一部腐っていて、置いていた物のほとんどがカビていた。
このカビ事件を管理会社に伝えると「すぐに確認に行きます」とのことで、本当に管理人が数分で飛んできた。どうやら、この部屋は北向きであったことと、壁に断熱材が入ってなかったため、カビと結露が大量発生したらしかった。ちなみに現在、島根のように寒くて多湿な地域ではペアガラスと呼ばれる2重窓が主流になっているらしいが、このビルは古いためか、窓は1重にしかなっていなかった。とにかく断熱材を入れていないのは致命的だと思った。
その後、管理会社は断熱材が入っていないことが不味いと思ったのか、606号室を含めた空き部屋は全てペアガラスと断熱材を入れるリフォームを施していた。これ以降しばらくは、患者との会話はカビ事件の話で持ち切りになった。なにせ田舎にいると話題が乏しいから、ちょっとした事件でも針小棒大なネタになる。
するとある日、いつも不動産経営でガッポリ儲けて笑いが止まらないような顔をしていた患者のEさんが「うちの自社ビルの1階のテナントが空いてるけん。安くしちゃるで」と言った。島大近くの学園通り沿いで、川津のバス停も近くて、立地はまぁまぁ良い物件だった。Eさんはその物件の上をオフィスとして使っていたから、その下に鍼灸院が入れば、気軽に鍼灸治療を受けられるようになるだろうという魂胆があったらしい。
しかし師匠にこの件を話したら「移動するのは困るよ。患者さんが混乱するから」と言ったため、結局、2012年に同じビルの7階へ移動するという妥協案に至った。管理会社は悪いと思ったのか、家賃を据え置きにしてくれた。松江城が見える眺めの良い部屋だった。南向き、角部屋、最上階の7階だったから、湿気の害から逃れることは出来たが、相変わらずエレベーターの点検問題は解決出来ないままになった。
2011年に東日本大震災が起きた時は、まだ6階で営業していた。3LDKの間取りで、ベランダ側の2部屋を治療部屋にして、4畳半くらいのリビングダイニングを待合所にしていた。待合所にはテレビを置いていて、患者が暇を持て余さぬよう、テレビをつけっぱなしにしながら治療する、というスタイルだった。
東北から島根までは直線距離でも1000キロくらいはあるからか、さすがに揺れは感じられなかった。現在のようにスマホが普及していなかったから、おそらくテレビをつけていなかったら、地震があったことには気が付かなかっただろう。テレビをつけておいて良かったと思った。
ちょうど私は患者に鍼を刺し終わったあとで、水道で手を洗っていた。すると突然テレビの画面が騒がしくなり、キャスターが大地震が起こったと興奮しながらしゃべっているのが見えた。しばらくすると津波警報が発令され、画面に映し出された日本地図の沿岸が赤く点滅し始めた。赤いマーカーが点滅している場所に津波が来るから注意して下さい、という報道だったが、島根県と鳥取県沿岸だけは何故か赤いマーカーが点滅していなかった。針を刺されたまま、うつ伏せになっていた80歳過ぎの女性患者に地震があったことを伝えると、「島根は神の国じゃけん。地震は起こらんし、津波も来ない」と悟りを開いた聖人のように、落ち着いた様子で答えた。
その後しばらくは、患者との会話は地震の話で持ち切りになったが、「島根は神の国であるゆえに災害が少ない」と語る人が少なくなかったことに少々驚いた。東京で生まれ育った自称シティーボーイにとって、これは島根で初めて受けたカルチャーショックだった。
そういえば、島根県雲南市の大東町には、知る人ぞ知る海潮温泉という秘湯がある。海潮温泉は出雲風土記にも載っているという古い温泉で、無色透明の湯だ。この温泉が好きだと言って、毎日のように入り浸っている患者がいた。彼は東日本大震災が起こる前日にも湯船に浸かっていたが、その時急に湯船が茶色くなって、驚いたそうだ。これまで海潮温泉で茶色い湯が出たことはないらしく、のちに彼は「あれは大地震の前兆だったんだろうか」と語った。東北から島根まではかなりの距離があるし、フォッサマグナを隔てているけれども、結局は同じ地殻の上にあるわけだし、地球規模で見れば1000キロなんてのはわずかな距離であるから、そういうこともあるかもしれないな、と思った。
地震が起きて数日後、仙川で店を経営している高校時代の先輩から、「東京はどこも電池が売り切れで困っている。そっちで買って送ってくれないか」と電話があった。その日の夜に春日町の、あるのに「いない」というホームセンターに行って、電池を大量に買った。駅前のイオンでは東北に住む親戚に送る物資を沢山買ったが、店内は予想外にも在庫であふれていた。
2012年には島根から師匠と北京へ行った。北京では針灸用具店で大量の棒灸を買って船便で送ってもらった。薬監証明書などの面倒な書類を厚生局やら税関やらとやりとりして、苦労して手に入れた棒灸だったけれど、数箱使っただけで、残りは全て東日本大震災の被災地に送ってしまった。
定期的に被災地へ訪問し、物資を届けているという某会社のお偉いさんであった、出雲市出身のSさんという患者がいた。鍼灸師として現地へ行って何か出来ないかと思ったが、針灸に対する誤解が多く、針灸治療の社会的許容度が低い日本においては、行かずに物質的な援助をする方が良いだろうと考えた。で、ライター、ロウソク、棒灸、棒灸の使い方を書いた説明書を1セットずつに個別包装して箱詰めし、Sさんに荷物を託した。Sさんはとある仮設住宅で、この棒灸をすべて配ってくれたそうだ。
しかし今考えれば、あれは失敗だったな、と思う。当時の私はまだ棒灸を使い慣れていなかったため、棒灸の煙の酷さに気が付いていなかったのだった。狭い仮設住宅で有煙棒灸を使ったら、衣類やカーテンに臭いが付くし、部屋中がモクモクになって大変なことになるだろう、という想像が出来なかったのは愚かだった。今は台湾製の良い無煙棒灸があるけれど、当時は細くて小さな、火力の弱い無煙棒灸しか販売されていなかった。
特に好んで行ったのは、平田市にある「ゆらり」という温泉だった。松江から車で40分くらいの場所にある、源泉かけ流しの温泉だ。
ゆらりの清潔感、サービス、雰囲気などに関しては東京では珍しくない感じだったけれど、このあたりでは群を抜いていた。毎分200リットルと湯量が豊富で、中国地方で最大級の温泉ではあったが、僻地にあるためか平日は空いていることが多かった。特に平日の昼間は、ズーズー弁でしゃべる、年老いたお馴染みの地元民がパラパラと集まるくらいだったから、のんびりと湯船に浸かることができた。また、地下水をくみ上げているという、ひゃっこい水風呂と、休憩所にファミリー製マッサージ機があったのも、ここへ通う大きな動機の1つだった。
松江市からゆらりのある平田市までは、宍道湖北側の湖北線をひたすら西へ走れば辿り着ける。出雲大社で有名な、出雲市の手前にあるのが平田市だ。平日だと交通量は少なかったから、アクセルは開けっ放しで走れて、そんなに遠くは感じなかった。猛烈な台風の時は、道路まであふれ出した湖水によって宍道湖に車が呑み込まれそうになったこともあったけれど、健康維持のためと自分に言い聞かせ、週3回くらいは通い続けた。確かに温泉に入って温冷浴をしたり、定期的にマッサージチェアを使っていると、体調が大きく崩れるということはなかった。島根にいた頃は早く東京へ戻りたいと思うことが多かったけれど、年をとってくると、東京であくせく働くよりも、田舎でのんびり過ごした方が健康には良いのかな、なんて考えたりする。
そういえば、フォーゲルパーク手前にあった某鰻屋は地元民からも人気で、1度食べてみたが、確かに美味かった。しかし島根で食べた鰻の中では、高津川でとれた天然の鰻が一番美味かった。ちなみに、高津川は四万十川などと並び、かつて日本一の清流と呼ばれた川だ。天然の鰻は本当に胸が黄色味を帯びていて、「むなき(胸黄)→うなき→うなぎ」になったという語源の話も何となく頷けた。当時、高津川の鰻は「シルクウェイにちはら」という道の駅で冷凍したものが売られていたのだが、冷凍でも十分に美味かった。鰻も鮎も、天然モノは年々数が減っているそうだが、まだあの冷凍鰻は売っているのだろうか。
仕事が早く終わった日は、ゆらりへ行く前に、ラピタというスーパーへ寄ることが多かった。地元産の新鮮な野菜やら、農家の人々が作った漬物や餅などを売っているコーナーがあり、そこを物色するのがこのスーパーでの唯一の楽しみだった。
いつものように野菜を物色していた時、突然見知らぬ地元民らしきお婆さんに、「お母さんは元気かね‥‥」と話しかけられたことがあった。お婆さんはかなり訛っていたので、おおかた何を言っているかわからなかった。しばらく黙って話を聞いていたが、お婆さんは私が別人であることに気が付き、「〇〇の孫に良く似ていたもんだから間違えた」と言って会話が終了した。
出雲弁といっても島根の東と西では、かなりの違いがあるようだ。特に平田市は東北弁のような、いわゆるズーズー弁で、儘(まま)聞き取れないことがあった。
かつて、ウラジオストックで島根産と東北産の黒曜石が出土したため、「出雲人と東北人はウラジオストックに起源がある」と主張した学者がいた。また、最近は、出雲族はもともと「チュルク族」であり、ロシアのバイカル湖付近に起源があるとか、「蝦夷」も「アイヌ」も出雲族であると言う人もいる。確かに1000キロ以上も離れた場所で、局所的に同じような方言が残っているのは真に奇妙な話だ。何より隣に位置する松江や出雲と、言葉が全く似ていないというのが不可解だ。さらに平田市あたりの言葉は、日本書紀や古事記やらに出てくる古い日本語と似ているらしく、日本語の起源は島根にあったという話もある。つまり、出雲族が大和族(秦氏)との争いに負けて、東北へ追いやられたではないか、というのだ。しかし、まぁ、こういう事に関して私は門外漢であるから、真相はよくわからぬが、非常に興味深い話ではある。
ゆらりの温泉は微かに硫黄臭がするものの、無色透明のアルカリ性単純泉で、比較的なめらかな泉質だった。源泉そのままでも十分に良かったが、ゆずが湯船に浮いている時は、最高に良かった。
ゆらりには3年あまり通い続けたが、ゆずが入っていたのは1度きりだった。これまで様々な温泉へ行ったけれど、ほのかなゆずの香りと、摺木山から流れ出ているという優しい温泉のマッチングは、中々絶妙だった。
ほぼ毎日、海潮(うしお)温泉へ行っているという東忌部(いんべ)人の患者が、「あの地震の前日だけですよ、源泉の色があんな茶色く濁ったのは」と言っていたくらいで、テレビからけたたましく流れ出る大地震関連のニュースは、まるで他人事のようで、多くの患者は平時と変わらぬ様子で過ごしていた。
そんな中、東京人にとっては甘すぎる鯵(あじ)の南蛮漬けを定期的にもってきてくれる患者のKさんが、「つい先日、松江歴史館が完成したのよ。早速行って来たけど大した事なかったわ。まぁ、先生も行ってみたら」と言った。
Kさんは元々、十数年も前から、線維筋痛症の如き謎の全身痛を患っており、北京堂に出逢うまでは歩くことさえできなかったそうだ。しかし、師匠の施術で歩けるようになり、私の施術で小走りできるようになったものの、完治には至らず、定期的に通院していた。
ある時、Kさんが「先生、お土産です」と言って、カンボジアで買ってきたという小さな荒彫りの仏像を差し出した。村八分の存在を信じていた純朴な東京人は断ることもできず、お礼を言って受け取ったわけだが、本来信仰するものがない人間にとって、出所の知れぬ仏像のお土産は、あまり気分が良いモノではなかった。
そういえば、師匠と三鷹市の僻地で北京堂を開業して間もない頃、予約がほとんど入らない日々に業を煮やした師匠が、「これはきっと妹が中国から買ってきた仏壇の扉を開けているせいだ!不吉だから仏壇の扉を閉めましょう!」と叫んだことがあった。
師匠は本来、出雲教に熱心だったお母さんが買ってきた、毎年買い替えるべきお札(ふだ)を何年も無造作に壁に掲げておくほど、宗教には無関心であった。しかし、妹さんからお土産でもらったという、手の平サイズの怪しい仏壇を処分することができず、何故か本棚に飾ったままにしてあった。
「黄泉平坂(よもつひらさか)にある、黄泉への入り口を塞いでいるという大きな岩は、実は私たちが若い頃に運ばされたものです」と、出雲訛りの標準語で暴露したお父さんと同様、師匠も典型的な唯物論者であるはずだったが、鍼灸院営業不振の原因は、ミニ仏壇の扉が開いていることにあると思い込んでいるらしかった。
私は「今は開業して間もないし、ここは僻地だから、最初は患者が来なくて当然だ」と思っていたから、仏壇の扉を閉めても何も変わりゃあしないだろう、と高を括(くく)っていた。
しかし、師匠が仏壇の扉を閉じるや否や、院内の電話の着信音が鳴り響いて新規の予約が入ったもんだから、師匠は仏壇が良からぬオーラの泉となっていることを確信した様子であった。
当時、松江市では、2007年から「松江開府400年祭」が始まっており、2011年はこの祭の集大成として、「松江開府400年記念博覧会」が開催されることになっていた。松江歴史館はこのタイミングに合わせて開館したようだった。
ちょうど同時期、隣の出雲市では、独身女子が出雲大社で願掛け参りするというブームに火がつき始めていて、松江市もそれに肖(あやか)って、何とかして観光客を増やしちゃろう、という気運が高まっていた。
しかし、観光という点においては、松江市には出雲大社ほど強烈なスポットが存在せず、松江城は未だ国宝に認定されていなかったし、独身女子を魅了するようなモノも皆無に等しかったせいか、境港市の妖怪ロード成功に便乗して、松江市を怪談の町として売り出してはどうか、と言う話があった。
例えば、松江市にゆかりのある小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の怪談話に関係のあるエリアを巡る、松江市独自の怪談ツアーなどを定期的に開催する、という話だ。
そんな中、完成して間もない松江歴史館で、私の好きなフロッグマンがトークショーをすると言う話を、2ちゃんねるのスレッドで時折見られる「あげ」は出雲弁である、と信じていた、毎年「すてきな奥さん」のリッラクマ付録を楽しみにしていた某患者から聞いた。
その患者曰く、今をときめくフロッグマンと、「怪談」の代名詞のような存在である小泉八雲の子孫とをコラボさせ、松江を盛り上げていこうという作戦なのではないか、という話だった。
結局、件(くだん)のトークショーを見るため、仕事を早めに切り上げて松江歴史館に行ってみたものの、今になっては、最前列に陣取っていたフロッグマンの熱心なファンらしき人々が、頻繁に頷(うなず)く映像しか脳裏に浮かばず、彼らがどんな内容を話したかは、もうスッカリ忘れてしまった。
フロッグマンは確かに才能のある人だと思う。彼の代表作は「鷹の爪」だけれど、最もセンスを感じるのは「京浜家族」である。
「鷹の爪」は、随所に島根を皮肉るセリフが散りばめられている、奇抜かつ斬新なフラッシュアニメの走りであったが、老年人口の占める割合が多い島根県においては、フラッシュアニメ自体を知らぬ人が多かったから、話題に上ること自体が少なかった。
それでも、「鷹の爪」ブームを見越してか、旧日本銀行松江支店跡地のカラコロ工房内に唯一、フロッグマングッズを扱う店があった。